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シンガポール日本人墓地公園

東南アジア最大の日本人墓地、シンガポール日本人墓地公園はセラングーン地区の閑静な住宅地、チュアンホー・アベニュー(Chuan Hoe Ave)にあります。120年以上も前に作られたこの墓地、およそ3万㎡の広い敷地には900を超える墓標が存在しています。ゴム園だったこの土地に、病で倒れていくからゆきさんたちを悼んで、墓石を建てられたのが始まりで、太平洋戦争で命を落とされた軍人や隊員の方々、戦犯として死刑となった「殉難烈士」の碑など、日本と東南アジアの歴史を刻んだ墓標を数多く見ることができます。

ヨーロッパからの帰国中にインド洋で病死した二葉亭四迷の碑や、シンガポール最初の日本人定住者「音吉」の記念碑も見られます。

第一部 シンガポール日本人墓地

この土地でゴム園を営んでいた二木多賀治郎 (ふたきたがじろう)。

1889年、船員としてシンガポールに渡った二木は、雑貨商やゴム園経営で成功を収めていました。そんな二木は、若くして病に倒れていく同じ日本人のからゆきさんが、時に牛馬の遺骨場に埋められている姿に心を痛めていました。安らかに眠ってもらう場所を提供しようと自らのゴム園を墓地としてイギリス植民地政府に申請、1891年、墓地としての使用許可を得ました。これが日本人墓地の始まりです。時を同じくして、墓地の管理団体 共済会が発足、のちのシンガポール日本人会が誕生しました。誕生からおよそ60年の1949年、第二次世界大戦が終わって4年後のこの年、イギリス植民地政府は日本人墓地を強制的に取り上げてしまいます。1952年サンフランシスコ条約が締結され、日本総領事館が再開し、翌年の1953年には墓地の管理が、条件付きで総領事館に委ねられることになりました。

1957年には墓地の清掃や管理などをきっかけに、戦後消滅していた日本人会が再び発足します。1969年、遂に墓地は日本人会へ返還、しかし、1973年、シンガポール政府は国内42カ所の墓地に埋葬禁止令を発令、日本人墓地も対象となってしまいましたが日本人会による清掃や管理の甲斐もあり墓地は存続されます。1987年にシンガポール政府が強制的に取り上げようとしますが、日本人会が在シンガポール日本国大使に依頼、官民総力でシンガポール政府へ陳情を行いました。その甲斐もあり、政府から30年間の賃貸という形で存続が許可され、こんにちに至っています。

現在は墓地公園として、子供や地域の人たちに憩いの場として親しまれています。戦争や都市開発、多くの時代のうねりの中で日本人会が守ってきたこの公園は、多くの人にとってかけがいのない存在になっているのではないでしょうか。

日本人墓地の現地ガイド歴45年の顔夕子(がん・ゆうこ)さんへのインタビュー映像。彼女は鹿児島県出身で、1967年に中華系シンガポーリアンと結婚し、シンガポールに移り住んだそうです。現在ではシンガポール日本人会主催の各種史跡ツアーなどでベテランガイドとしてご活躍されています。

  

現在およそ910基ある墓のうち、からゆきさんの墓と思われるものがおよそ400基あります。19世紀末、彼女たちの多くは日本に帰ることができず、この地で亡くなられ、この墓地で眠っています。

この墓地には多くの無名者で命日もあきらかでない墓に行き当たります。第二次世界大戦直後にはおよそ1300基の墓標があったことが記録されています。しかし、木の墓標などは雨風にさらされて朽ちてしまい、今日までにおよそ3分の1が消滅してしまいました。また戦前まで

第二部 顔夕子 (がん・ゆうこ)さん

の明治、大正、昭和にかけては木の墓標が多数あったようですので、この墓地に永眠している方々は何倍にものぼることでしょう。また判読不明の木標や石面の文字が破損して読めぬものなども存在します。最も目立つのは「精霊菩薩」と書かれた無名墓です。これは朽ち果ててしまった墓を、当時の日本人たちが修復したとも言われています。そうだとすると、当時の人たちの持つ心の暖かさが伝わってきます。風雨に朽ち果てた墓石が、人々の記録に残り、資料として役立つ事を願わずにはいられません。このインタビューでは、長い間、シンガポール日本人墓地のガイドとして努めてきた顔夕子さんの見聞きしたお話をご紹介しています。

シンガポール日本人墓地公園所在地

825B Chuan Hoe Avenue, Singapore 549853

開園時間 毎日 8:00am - 18:30pm

​     基本的に祝日も開園しています

公園情報 入園は無料

     お賽銭箱あり

     飲み物の自動販売機があります

     近くにはお店はありません

​参考リンク

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